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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ アイオワ : [あいおわ] 《地名》Iowa アイオワ州 ・ 州 : [す, しゅう] (n) sandbank
ダビューク (Dubuque) は、アメリカ合衆国アイオワ州北東部、ダビューク郡に位置する都市。市はミシシッピ川に面し、アイオワ、イリノイ、ウィスコンシンの3州境に位置している。地元ではその立地から「トライ・ステート・エリア」と呼ばれており、ダビュークはその商工業、教育、および文化の中心となっている。また、カトリック教会のダビューク大司教区が本拠を置く、宗教都市としての側面も持っている。人口は57,637人(2010年国勢調査)〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日.〕。 ダビュークはアイオワ州最古の都市である。その歴史は1785年までさかのぼり、1833年にはアイオワ準州の成立よりも前に正式な市となった。また、ダビュークは現在のアイオワ州のみならず、アッパー・ミッドウェストと呼ばれる、現在のウィスコンシン州やミネソタ州など、中西部でも北のほうにあたる地域への入植の拠点ともなった。そうした理由から、ダビュークは「鍵となった街」 (''Key City'') と呼ばれている。 初期のダビュークは鉛鉱山の町として入植者を集めた。鉛資源が枯渇すると、その後は1980年代に至るまで長い間、ダビュークは製造業の中心地として発展してきた。しかしその後の地域経済衰退を受けて1990年代以降は産業構造の多様化が進み、製造業に加えて、医療、教育、出版、金融といった産業も市の経済と雇用を支えるようになってきている〔Dubuque, Iowa . ''Most common industries for males'', ''Most common industries for females''. City-Data.com.〕。また、市内に多数存在する歴史的な建築物や、再開発の進むミシシッピ河畔の各種観光施設などを活かした観光業の発展にも力を入れてきている。 ==歴史== 現在ダビューク市のあるこの一帯は、ミシシッピ川以西では最も早くから探索が進められた地の1つである。この地を初めて探索したヨーロッパ人は、1673年よりミシシッピ川沿いに探索を進めていたジャック・マルケット神父およびルイ・ジョリエットであった。彼らは未踏の地の地図を作成するべく、ヌーベルフランス植民地から派遣されてきていた。1682年にはヌーベルフランスが管轄するこの地域全体をフランス領であるとし、ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがルイ14世にちなんでルイジアナという名をつけた。1763年にフランスがフレンチ・インディアン戦争で敗れると、ルイジアナはスペインの統治下に入った。 ダビュークへの最初の永住入植者は、1785年にこの地にやってきたフランス系カナダ人探検家のジュリアン・ダビュークであった。1788年、ジュリアン・ダビュークはスペイン政府、およびもともとこの地に住みついていたネイティブ・アメリカンのフォックス族の両方から、この地に豊富に埋蔵されていた鉛の採掘の認可を得た。ルイジアナは1800年には再びフランスの統治下に戻ったが、1803年にはアメリカ合衆国に買収され、併合された。1810年にジュリアン・ダビュークは死去したが、この地の鉛鉱山はフランス系をはじめ、新たなヨーロッパ人の入植者を多数呼び込んだ。このジュリアン・ダビュークにちなんで名付けられたダビュークの町は、ミシシッピ川に沿った、広く平坦な土地の南端に形成された。ダビュークは1833年に、ルイジアナ買収地の所属未定地にありながら正式な市となった。この所属未定地は1838年にアイオワ準州となり、1846年には連邦29番目の州に昇格した。 初期のダビュークの地域経済を支えてきた鉛資源はやがて枯渇したが、その後、市には様々な産業が興った。ミネソタやウィスコンシンの森林資源に近かったことから、ダビュークは木材の集積地となり、製材業が発展していった。また、造船や醸造、後には鉄道もダビュークにおける重要な産業となっていった。19世紀中、そして20世紀初頭に入っても、ドイツ系の貧民やアイルランド系のカトリック教徒が産業の中心地となっていたダビュークに何千人という単位で流入してきた。1837年にダビューク大司教区が創設されると、それ以降、ダビュークにおけるカトリックの勢力は圧倒的に強く、カトリックの教会や修道院などの宗教施設が多数建てられた。 19世紀末から20世紀初頭においては、ダビュークにはアダムズ・ファーウェルが本社を置き、「真鍮時代」と呼ばれる初期の自動車が生産されていた。しかし、その時代の多くの自動車会社と同様、アダムズ・ファーウェルも長く生き残ることはなく、1912年に廃業した。その後もダビュークの発展は続いたが、1980年代に至るまで、ダビュークの地域経済は製造業に大きく依存していた。しかし製造業をめぐる様々の状況の変化や、1980年代に中西部全体を襲った「農場危機」〔Manning, Jason. The Midwest Farm Crisis of the 1980s .〕による農業部門の低迷により、市の経済全体が大きく衰退した。しかし1990年代に入ると、ダビュークは重工業主体の経済から脱却し、地域経済構造は急速に多様化した。その後は、医療、教育、出版、金融、観光といった産業が大きな伸びを見せている〔。重工業で占められていたミシシッピ河畔・ダビューク河港の再開発も進められており、観光施設、文化施設、宿泊施設が次々と建てられている〔AMERICA’S RIVER PROJECT A BIG TOURISM SUCCESS; $188 Million Development Provides Variety of Attractions . 2009年3月.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダビューク (アイオワ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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